usajii357’s diary

Twitterでは足りない物を載せる用

第2回アイマス学会in札幌への資料展開によせて

 アイマス大学文学部人文部門哲学宗教学分野宗教学研究室の研究員、兎爺と申します。嘘です()兎爺Pと申します。

 

  さて、第2回アイマス学会in札幌に私も資料を提供させていただきました。その名も「アイマスは宗教なのか」。アイマスを宗教学の観点から考察するという我ながら「ぶっ飛んだ」研究でした。ここでは展開させて頂いた資料に関しての説明や反省を行っていこうと思います。というか配布した資料とこれ含めて発表として完成しているので、資料が気になった方は是非読んでください。配布資料の方も早いうちにまた何かしらの形でネットの海に放流します。多分

追伸…とりあえず個人で放流しました。

https://drive.google.com/drive/folders/1lvW-UvhaRXq1q8HXPqwX5imLiwgSV9t4?usp=sharing

 

・何故書こうと思ったのか

 そもそも私がアイマスに出会ったのは2017年の8月頃。音ゲーしたいな、とデレステをたまたまダウンロードしたのが始まりです。「Take me Take you」イベントをわけもわからず走った覚えがあります。その頃の私は簡単に言えば精神的に参っている状態。そんな中出会ったデレステは私の救いとなったわけです。

 

 さて、月日が経って私は宗教学と出会います。多くの日本人がそうであるように、宗教と距離を取り、宗教への知識が無い状態で生活してきた私にとって、宗教を論理的に考察していくその学問は新鮮でした。師(だと私が勝手に思っている方)は宗教という難しくも面白い内容について様々な視点を教授してくださいました。その一つが「アイドルと宗教」。ライブは集団礼拝なのでは、アイドルユニット文化とヒンドゥー教の類似点はあるのか、といった問題提起はアイマスに救われたと思っている私に深く刺さりました。

 アイマスと宗教は良く比較されます。ですがそれらは全て「ネタ」であったり、宗教への表面的なイメージによるものです。この内容について考える事でアイマス全体について何かしらの知見が得られるのでは?と学会の存在を知る前から思っていました。

 

 そんなこんなでアイマスに、宗教学に浸かり続けていた時、アイマス学会の存在を知ります。プロデューサー達がアイマスについて愛を語り続ける場。更には資料配布が可能と聞き何かしら発表したいと思いました。その時のネタ帳がこれ。

・sideMはいいぞ

・担当である道明寺歌鈴さんの魅力再発見

アイマスの宗教性

 始めは歌鈴ちゃんについて書くつもりでした。sideMは感情の整理ができていない状態でした(今もなんですが)し、なにより担当の話が一番オーソドックスで書きやすいと思ったからです。実際に書いていましたし、その残骸が今も手元にあります。いつか完成させるかもしれない…

 

 そんな中アイマス学会in北九州での発表に衝撃を受けます。そうです、チェズイエン工廠さんの「偶像概論」です。アイマス概論とでもいうべきこの発表を見て、私も概論について書いてみたい、前々から温めていたアイマスの宗教性について本格的に研究するチャンスなのでは?と思ったわけです。実際に細々とではありますが書物等で知識を増やしていましたから、行けるのでは?と思ってもいました。今回の参考文献には細々と読んでいた書物も含まれています(執筆前にざっくりと読み直してはいますが)。17冊もの参考文献があるのはその為です。

 書こうと決意してからはまさに暴走状態でした。とりあえず書物を読み続けました。書ける、という自信が出てきたあたりで主催者であるKeyPさんに連絡しました。唐突にご連絡し、10000字の試作資料を送ったにも関わらず読んで確認して頂いたKeyPさんには本当に感謝しています。また、先行研究者のチェズイエン工廠さんに連絡を入れて今度は修正を加え13000字を超えていた試作資料を送りました。唐突に知らないアドレスからメールしたにも関わらず暖かく対応してくださったチェズイエンさんにも感謝の言葉しかありません。お二人とももはや神では()

 

・「資料展開」

 宗教というのは難しいものです。人々の心の支えになるだけでなく、対立や戦争とも結びついてしまっています。特に日本ではテロリズムや詐欺等の悪のイメージが大きいと感じます。というわけで今回の資料は割と「人を選びかねない」物であると考えていました。実際にKeyPさんにご連絡する際、その点から内容のチェックをこちらからお願いしましたし、なんなら断られる事も十二分に覚悟していました。歌鈴ちゃんの資料を作っていたのはその予防線でした。

 そもそもアイマス学会は「担当のエモい話」を発表する場です。参加してしまった以上、(途中退席が認められているとはいえ)発表は否応なしに「聞かされる」物になります。そんな場で宗教性がどうといった発表が受け入れられるのでしょうか?という疑問から私は資料配布の形を取りました。例え発表枠が十分に残っていたとしても配布の形をとったと思います。見るかどうかを「選択してもらう」事で受け取り手をいわば「選択する」事にしたのです。本来ならば万人に受け入れられる物を書くべきだったのでしょうか、時間と考察が足りませんでした。ある意味「逃げ」ではあるのですが最適解であったかな、とは思っています。

 

 資料展開だからこそ出来る発表というものがあると私は思います。勿論展開も学会発表と同じ重さを持ちますからなんでもいいというわけでは決してないですが…。展開だからこそ出来る研究を今回させていただいたな、と思っています。

 

 

・反省

 これです。これが書きたかった。13000字書いたにも関わらず、私の資料はガバガバです。Pの涙腺よりもガバガバです。その点を自己批判していきたいと思います。適切な批判から研究は進むのです。似たような研究をされる方がいらっしゃいましたら、これらの批判を念頭に置いて私の資料を読んでいただきたいと思います。

 

 まず大前提として、世界宗教との比較をメインとした点。信仰者全員を救済する性質をアイマスの万人性、つまり楽しむ事に民族的条件が必要ない事との共通点としたわけです。ですがそもそもアイマスは誕生して15年ほどしか(宗教の世界で見れば)経っていないわけです。宗教分類の中では新興宗教に当たる事は明らかです。その点からすれば新興宗教と比較するべきなのです。これをしなかった理由は三つ。一つは「新興」宗教というぐらいなので宗教体系が不安的である事。次に数が多すぎる事。そしてもう一つは新興宗教には従来の宗教の要素を元にした物が多く、その元になった世界宗教との比較を行う方が良いと考えた為です。というわけでそもそもの比較対象が適切であったのか、について?マークがついてきます。だからといって比較出来たのか?と言われるとその不安的さや宗教体系を隠している例もある事から微妙なラインではあります。

 

 神についても見てみましょう。今回アイドルを神とし、パイタッチという侮辱が頻繁に行われている事からそれを否定しました。ですがそれは正しいのでしょうか?「人間はその思考を無意識のうちに生まれた場所や時代、言語等によって制限される」という構造主義の考えを引用すれば、現代の日本人にとって常識である事が唯一無二の不変なる常識であるはずがないのです。つまり、世界には「パイタッチは侮辱でなく尊敬の意を表すもので、それをされた相手は嫌がるそぶりを見せないといけない」という常識が存在するかもしれません。もしかすれば、アイマス教はそういった常識の元に成り立っている可能性もあります。

 アイマス教が主に現代日本で信仰されているとした以上、パイタッチが善とする常識の元に成り立っているという仮定は現実的ではありません。ですが100%正しい判断だったとは言えません。

 

 祈りについても説明が必要でしょう。今回は礼拝に伴う「行為」に注目して考察を行いました。これは行動そのものに注目した研究方法であり、宗教学では良く見る研究方法ではあります。ですが、本篇で例に挙げた「cin6th名古屋公演での礼拝」を実際に行った方からすれば「ネタだった」「本気で祈ってない」と感じられる事は間違いありません。つまり、感情の面をガン無視した研究だと言えます。聞き取り調査等を行うべきだったのかもしれない、と反省する限りです。一方、10万人で祈った結果白菊ほたるさんにボイスが付いたという「祈りの効果」が見られた、という見方から考えると名古屋公演の出来事を祈りとした事は全くの間違いだったとも言い切れません。

 

 聖典に関しても見ておくべきでしょう。聖典は「賛美」だとしました。が、賛美なのか?間違いを犯す情景が描かれていないか?となるような聖典は割とあります。

 わかりやすいのがギリシア神話。ここでの最高神ゼウスは神だろうが人間だろうが、既婚だろうが、未婚だろうが関係なく様々な女性(女性神も含んで)に手を出し、そのたびに正妻であるヘラが嫉妬に苦しむ姿が描かれます。これは賛美とは…言えないですよね。勿論ギリシア神話が信仰されていた時代に「男はともかく女に手をだす事が美徳である」という考えであった可能性も否めないですが、少なくとも私の知る限りそのような研究は聞いた事がありません。まあ、そもそもその内容からギリシア神話は信仰対象だったのか、という研究がなされてはいるのですが…

 他の宗教でも、神があまりにも重い天罰を下そうとして他の存在に諌められるシーンが描かれる事があります(それでも諌められたら素直に止めるあたりが『神様』なんでしょうね)。このように聖典だからといって全編賛美バンザーイ、ではない事は事実です。

 では聖典が無いから宗教でない、と言えるわけでもありません。ここで5章で触れたヒンドゥー教が効いてきます。ヒンドゥー教の特徴としてその「自由さ」を挙げました。それは聖典にも同じ事が言えます。すなわち聖典が存在しません。あることにはあるようですが、明確なものは存在しません。よって世界宗教であるアイマス教に聖典が無くともヒンドゥー教のような体系の世界宗教である可能性があります。一方で本篇にて「アイマス教に聖典があるとしながらヒンドゥー教と似ている」としていますが、聖典の面からこちらも問題があると言えますね。

 

 次はシャーマンのくだりです。今回声優の皆様をシャーマンと位置づけましたがこれはどうなのか。

 シャーマンの是非について語る上でトランス状態の記憶に関して「覚えてない事が多い」と書きましたが覚えているシャーマンの例など大量にあります。こと日本のシャーマンに関してはそれが顕著で、トランス時の記憶に関する記述が至るところで見られます。「シャーマンでない」とする根拠が間違っている可能性があります。というよりその可能性が高いです。

 そもそもシャーマンと定義した点に関しても疑問があります。シャーマンとは基本的には「先天性」があるとされます。生まれながらにしてシャーマンとなる素質があり、ある年齢に達するとその能力が表面化してくる、という事です(デシテー)。では声優の皆様は生まれもった能力によって声優として活躍されているのか、勿論NOでしょう。彼らはれっきとした「プロフェッショナル」なのです。生まれ持った才能というものはあるのでしょうが、養成所に通われたりして我々には想像もつかないような努力の末声優として活躍されているのです。「声優になる為に努力する」才能を先天的に得たのだ、と考えられないわけでもないですが、シャーマンにおける先天性とは少し違うものであると考えます。そもそも声優の皆様を「先天的な物だけで声優になった」とするのは非常に失礼です。完全なる余談ですが私はそんな声優の皆様を心の底から尊敬している人間ですので、この切り口を思いついた際余りの失礼さに強烈な自己嫌悪に陥りました。学問は時に人を悪魔にするのかもしれません…

 以上からシャーマン関連も割とガバガバです。そもそもシャーマンというものの定義がガバガバなのでなんとも言えない部分はあるのですが…アイマス教に(自己嫌悪に苛まれながら)シャーマンを導入した理由が一応あるのですが、それは後に示します。

 

 預言者に関する研究。預言者というのは神の啓示等を受けて他人を導く、いわば「神に近い存在」ともいえましょう。よって預言者は信仰者から尊敬される存在です。では、我々Pが坂上氏に行っている行動は「尊敬」なのでしょうか?坂上氏がニコ生等に出演された時、決まってPによる「へんたーい」コールが行われます。変態という言葉は基本的に良い意味ではありません。勿論一般人とは違ってすごい、という意味もあるでしょうが完全なる賛美ではないと考えられます。よって坂上氏を預言者としていいのだろうか、という疑問が働きます。

 

 次に先行研究への批判に関する事です。いくら許可を頂いたとはいえ(メールしたら許可いただけました)、先行研究に批判を行っておいてはい終わり、は嫌だなと思いましたので、そちらに関する説明や自戒を行いたいと思います。

 

 アミニズム批判。「架空の存在であるアイマスに価値を感じているのは現物と同じような精霊が宿っているからだ」という説をアミニズムそのものの定義から否定しています。ここで取り上げたいのは「アイマスと精霊」というものです。

 アイマスを精霊信仰や自然崇拝と結びつける点は上手い、と素直に思いました。複数の神的存在がいることや、崇拝体系があやふやな点は非常に精霊信仰らしいと思われます。よって精霊信仰をアイマス教に取り入れよう、と考えてシャーマンをアイマス教に取り入れました。何度も書きますがシャーマンとは神的存在との交信を行う存在です。シャーマンを規定することで実際にいない(もしかしたら実はいるのかもしれませんが)アイマスのアイドルを神的存在とする私の説を補強する事にもつながりました。また、我々がアイドルと声優の皆様を同一視する事があるという点も説明出来る事になりました。否定をしておいてなんですが、「アミニズムである」という説を補強したのが今回規定した「アイマス教」であるという風に捉えていただけると幸いです。

 

 そもそもですが、チェズイエンさんの説と私の説は「声優=アイドル」とみるのか「声優≠アイドル」とみるのかという、宗教体系の根本的部分が異なっています。その上で各々が研究をした結果、お互いがお互いを否定するような内容となってくるのは当たり前ともいえます。いわば「1+1」という数学の問題を二進法の計算と捉えて「10」という解を出すのか、十進法と捉えて「2」という答えを出すのかの違いです。やっている事は同じ「足し算」ですが、前提条件が違うので違う答えに至るのです。それと同じ事が起こっています。これから研究される方は是非読み比べた上で自らの考えを示してくださると嬉しいです。

 

 最後は全体的な話になります。まずはアイマス要素どこだよ、って話ですね。これでも濃い目にした方なのですが、やっぱり薄い。油断するとすぐにアイマスの話から宗教学の話にとんでいってしまいます。特に補足の章なんてアイマスの「ア」の字もないレベルだったりしますからね…。宗教学というマイナーな学問を扱う以上、誤解を生まないような説明を盛り込みつつアイマス学会に出してもなんとか違和感のないバランスを試行錯誤した結果、どっちつかずになってしまったなと反省しています。

 

 この批判そのものが問題なのでは?という話もあります。この批判は自らの論文を徹底的に論破する為に書きました。単純な知的好奇心からという面もありますが、筆者自身でここまでボッコボコであればこれからの研究もやりやすいかな、という想いによるものでもあります。よって割と無理やりな部分もあります。例えば「アイドル=神」論議で挙げた構造主義とパイタッチの話は割と無理やりでしょう。「批判の批判」まで行くともはやいたちごっこであり、どこかで止めないといけない事は事実なのですが、執筆した者としては考えないといけない点であると思います。自己批判大事。

 

 

 そしてこの話をしなければなりません。この研究は許される事なのか。宗教は本当に難しい物です。人間の心を支え、ある面では支配するものです。ですから「学問だから」を理由になんでもしてよいような領域ではありません。例えば秘仏。これは人の目に決して触れてはいけないと決められている仏像の事です。秘仏は外気にさらされていない為保存状態が良く、研究材料として最適ではあります。だからといってその秘仏をお堂から無理やり引きずり出して研究する、という事は行われてはいません(明治期に行われた例はありますし、それを喜ばしい事とする視点がある事を知ってはいますが…)。あくまでも宗教や信仰者を最大限尊重した上で研究を行います。

 では私の行った研究は宗教や信仰者、そしてアイマスを尊重した研究だったのでしょうか。私はそれらを尊重した上で個人的な感情をなるべく廃し、学問的意義があると考えられる文献を根拠とした上で論文を書いたつもりではあります。ですがそれで尊重は、配慮は本当に足りているでしょうか。「ただの趣味と我々の生きがいである宗教を関連させるな」「争いと結びつくようなものをアイマスと関連させるな」という批判が飛んでくる可能性は十二分にあります。実際に何度も何度も自己批判を行いました。

 個性を抱えた様々な宗教を同一化するような研究を行っていますがそれは一つ一つが持つ個性を尊重していないのではないでしょうか。同じように様々なブランド、アイドル、声優の皆様、プロデューサーさんがそれぞれの個性を持って活動されているにも関わらず、それを一つの「アイマス」に纏めるのは本当にやってよい行為だったのでしょうか。

 更には、本当に私見が入っていなかったのでしょうか。本篇でも挙げた偉大な宗教学者Heilerでさえも研究において彼のキリスト教的宗教観を排除出来なかったと評されています。偉大なる研究者でさえもクリア出来なかった問題を私ごときがクリア出来たのでしょうか?宗教を偏見で判断していないでしょうか?私の「常識」で物事を判断していないでしょうか?その「常識」は本当に全宗教において通用するものなのでしょうか?

 私は大丈夫だと判断しましたが、それが本当に大丈夫なのかは分かりません。そもそもこういった点に関して完全にまっさらな研究を行うのは不可能なのかもしれません。だからといって配慮する気持ちを忘れていいものではないでしょう。まさしく宗教を題材とする学問にとっての永遠の課題と言えましょう。ただ、資料にも記しましたが宗教や信仰者、アイマスを貶める意図は全く無い事だけは強調しておきたい。それはプロデューサーとして、宗教学をかじった者として、そして何よりも人間として申し上げておきたいと思います。

 

 自分でボッコボコにしておいてなんですが、一応弁解をさせてください。このようなガバガバな資料になってしまった理由は私の勉強不足や考察不足が一番の問題である事は認めますが、宗教学という学問の性質にもあると思うのです。

 宗教とは人間の精神に関わる事です。人間の心の中は可視化出来ません。更に宗教は人間の「常識」や「無意識」と深く関連しているものです。よって信仰というものを数値化する事は出来ないでしょう。極論を書くと、宗教を信仰しているのかを論理的に示す方法なぞありません。そういったふわふわしたつかみどころのないものを研究するのが宗教学なのです。例えるのであれば、色のグラデーションを見て「どこからどこまでが赤なのか」を考えているようなものです。それは人によって、見る時の体調によって、周りの環境によって微妙に変わってきますよね。どこぞの機関の定義を使えばはっきりと分けられるのかもしれませんが、そもそもその定義が正しいのかなんて分かりません。宗教学も同じです。終わりようのない議論に挑んでいる学問なのです(そもそも学問ってそんなものなのかもしれませんね)。

 終わりがはるか遠くにある為か、最近の宗教学には宗教の定義という目的を横に置いておいて、他者理解の道具としての役割を果たそうとする動きもあります。宗教が人間活動の根底にあるものであれば、その根底たる宗教を知る事でグローバル社会に必要不可欠な他者理解を実現出来るのではないか、という考え方ですね。グローバル社会への対応としては語学が取り上げられる事が多いですが、宗教学に触っておく事も割といい事かもしれません。

 

 もう一つ理由を挙げるとすれば、これが思考実験的であった事です。今回の研究には数字が一切出てきません。聞き取り調査等も行っていません。Twitterという限られた世界で、信憑性のあるデータ採取は不可能と判断した為です。そもそもアイマスの宗教性を考えるのであれば、アイマスのプロデューサーだけでなくラブライブのファンだったり、現実のアイドルのファンだったり、何かしらの趣味にぞっこんな人にも調査を行わないといけないでしょう。「趣味そのものがそもそも宗教的である」「アイドルが宗教的なのだ」という仮定を弾くためですね。それだけ大規模な調査を行う力が私にはなかった。グーグルが公開している匿名のアンケート機能を使えばいいじゃないか、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、回答者がそれぞれのコンテンツのファンであるという確約が取れない上にそもそも統計上信頼出来る情報で取れるかどうかの確認が出来ないので選択肢にすら入れていませんでした。よって穴が開きやすい思考実験的な研究方法を取らざるを得ませんでした。ここをクリアすればこの分野はどんどん進んでいけるハズです。イベント現地での聞き取り調査が一番良いのでしょうが、現地でそれやるのもどうなのかなぁ…という思いもあります。どうしたものか…

 

 ちなみにですがこの反省内容、配布した資料を書きながら書いていたりします。同時進行です。ガバガバだと思いながら書いていたわけですね。というわけで配布した論文とこの文章を合わせてようやく完成、とも言えます。流石にこれも配布すると紙量が凄まじい事になるので避けましたが出来ればやるべきだったのでしょうね…反省。

 

・後発の研究者さんへのメッセージ

 これらの問題を解決する最善策はズバリ、「研究者を増やす」です。宗教観も感性も違う人間がこの分野に参入して研究すればするほど、私見や偏見を排除しやすくなります。例えばですが、研究テーマとして

 ・ライブと集団礼拝、祭り

 ・「天空橋朋花さんと騎士団の関係」と「宗教集団における預言者と信仰者の関係」

 ・「布教」は存在しているのか

 ・祭壇と仏壇

 ・「エモい」は宗教体験なのか

等が考えられるのではないでしょうか。

 同時に宗教学について触れる際に使える本も紹介しておきましょう。全て今回参考文献に載せているものです。

・いわゆる「聖書」…世界的に見ても多数派であるキリスト、イスラムユダヤ教に関して学ぶならこれだと思います。個別の宗教について学ぶ事は宗教学においても大切な事です。同じようにお経や聖典も勉強になります。マンガ等もありますので大まかな内容をつかむのに便利です。

・「宗教の定義をめぐる諸問題」…宗教とは、宗教学とはについて簡潔にわかりやすく書かれた名著。唯一の問題点は入手が困難な事。

・「宗教学」…日本の高名な宗教学者岸本英夫による書物。そこまで分厚くもないので気軽に読めるのでは。古い書物なので現代の宗教学との相違点が見られる事に注意。

・「シャーマニズムの人類学」…シャーマニズムについて学ぶならこれ。ただしかなり分厚い。

・「原始文化」…精霊信仰についてタイラーが記した書物。最近新約が出たので非常に読みやすい。とてつもなく分厚いのでかいつまんで読んでもいい。民族差別的な表現がちらほら見られるところに執筆された年代を感じる。

・「祈りの現象学」…Heilerの宗教理論を「祈り」の観点から考察した書物。今回の研究の芯とした物。そこそこの厚さはあるがスラスラ読める。

・「宗教学入門」…Max Müllerによるもの。どんな宗教があるかを見た上で、それらを比較するという形で宗教学を論じている。宗教学の生みの親がどのように宗教学を考えていたのかがよくわかる一冊。

 これ以外にもたくさん書物がありますが、書物を選ぶ際は次の事に気を付けていただくといいと思います。

・表紙や書物名が地味なものを選ぶ。変に過激なものは偏見まみれだったり、自分の主張を押し付ける意図しかなかったりするので避けた方がいいです。

・「時事」や「社会」の棚にないものを選ぶ。これも上と同じく偏った物をある程度弾く意図があります。

・著者が大学教授や名の知れた宗教法人の所属者である本を選ぶ。読み始める前に著者を調べて、著書や論文、所属する団体について少し調べた方が良いかと思います。

・訳本。日本で翻訳されるという事はそこそこの価値があるという事にもなります。勿論そうでもない本もあるのですが…

・比較的大きな大学にある本を選ぶ。それも宗教学研究室や文学部がある総合大学がおすすめです。研究機関である大学にある本ですから、かなりの信頼が出来るでしょう。

 

研究してみたい、と思われた方は参考になさってください。

 

 人間と宗教は密接に関係しているとされています。宗教というとガチガチなもの感じるかもしれませんが、宗教とは道徳の理由に神を持ってきただけのものである、という表現がされる事もあります。案外モチモチなのかもしれません。そう考えれば多くが無宗教を自称する日本人ですらも宗教的要素に囲まれて生きているといえましょう。むしろ人間が生み出した物全てに宗教的要素が含まれているのかもしれません。つまり宗教学を学び研究する事はアイマスを含め、様々な物事を理解する手助けになるかもしれません。そんな想いで書き始めた論文という名の怪文書は気付けば13000字に至りました。それでも全く足りません。「違うのに…」と思いつつ改善案が見つからなかった部分が本当に多く、まだまだ研究を続けたいと思っています。ですがそれには新たな刺激が必要です。新たな論が必要です。私の拙い説を真っ向から破壊するような研究が欲しいところです。というか破壊してください。それがモチベーションになります。アイマス学会であってもなくてもいいので、この謎ともとれる研究分野への参入をお待ちしております。

 

・最後に

 今回の論文はスタートですらありません。人の入ることのなかった荒野を、チェズイエン工廠さんが整地して、私が白線を引いた段階です。ようやくトラックが出来て、競技が出来る、走者が走れる状態になったと言えましょう。走者の皆様、後はよろしくお願いいたします。私も走るから。

 諸事情により次の4月から函館に引っ越す事になりました。よってもしかしたら最初で最後の学会参加になるかもしれない。ならば本当にやりたい事をぶん投げてしまえ、やりたい事やったもん勝ちの精神で書いていました。本当に楽しくて気付けば書く事を決意してから勉強、研究考察、執筆に数か月かけていました。論文も8回ほど大幅に書き換えた記録が残っています。楽しい時間をありがとうございました。

 やっている事として「マイナーカプの同人誌作製」みたいな気分でした(同人誌書いた事ないですけどね)。アイマス×宗教学という題材を出来るだけ丁寧に、そして一人でもこちら側に来てもらえるように入口案内まで書いているのは我ながら狂気の範疇では…狂気の沙汰ほど面白い、の精神大切。

 今後参加する機会があれば、今度は歌鈴ちゃんやsideMについて書きたいと思っています。その為にも「エモい」という感情を文字にする訓練をしないといけませんね…ブログやTwitterなんかを利用して練習していきたいと思います。

 最後になりましたが、私の拙い文章をお読みいただきありがとうございました。

 

 

追伸…なんであとがきで1万字書いてるんですかね