usajii357’s diary

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アイマスと宗教学と私と

 今年の2月22日、第2回アイマス学会in札幌にて私は「アイマスは宗教なのか」という13000字に及ぶ紙の束を世に生み出しました。唾を吐きかけら、破り捨てられる事すら覚悟しつつ自らの全てを賭けて作成したその束は学会で多くの方々に手にとっていただく事となり、沢山のお褒めの言葉をいただきました。更には学会を通じて沢山のプロデューサーさんとの交流の機会を頂ける事となりました。全身全霊を尽くして生み出した紙の束はまさしく私のプロデューサー人生をまた一つ変えてくれた、そんな大切な存在です。

紙の束についてはこちらから

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 そんな研究についてですが、これまで私は「何故書いたのか」という話をほとんどしてきませんでした。否、避けてきました。ですが先程も書きましたようにこの研究は私のアイマス人生のみならず人生そのものを賭けたものです。沢山の方々に見ていただいている事も鑑みても、私にはこの研究を初めた事への説明責任があるのではと思い始めました。というわけでここからは説明責任を果たしていきたいと思います。説明責任だなんて書きましたが実際は日記みたいなものです。強烈な自分語りと余り気持ちのよくない話を含みますので自己責任で。

 

知的好奇心

 理由の一つ目は読んでそのままです。「アイマスは宗教」だなんてワクワクするフレーズが私の目に止まったのが悪いのです。面白そうな事があればやってみるのは当たり前の事でしょう。

アップデート

 宗教というとどんなものを思い浮かべるでしょうか?キリスト教イスラム教仏教がある…海外のもの…各種事件…カルト…何か自分とは関係のないもの…こういったところだと思います。実際にいわゆる「日本人」は無宗教を自称する割合が高く、世界的に見てもなかなかにユニークな集団と言えます。しかしながらその宗教観はマスメディアや各種事件の影響を多分に受けており、お世辞にも正しいとは言えません。間違っているわけでも無いのですが、宗教の持つ一面だけを見ているように思えます。

 私もそんな一人ではありましたが、宗教学という学問に触れていく中で宗教の持つ様々な顔を知る事となりました。そして自らの持つ宗教へのイメージをアップデートする必要があると考えるようになりました。

 あの研究は私の持つ宗教観のアップデートの過程で出来上がったものだったという訳です。私にとって身近なものであったアイマスに宗教学を適応する事で、自らの周りに宗教が溢れている可能性を探ったのです。アイマスにも宗教的一面があるという結論を叩き出した事を考えるに、このアップデートはなかなか上手くいったようですね。

 ここからは余談ですが、そもそも宗教学において宗教の定義というものは決まっていません。また日本人が無宗教なのかという点についても議論が交わされている状態です。この手の話はさながら色のグラデーションを見て、どこまでが赤でどこからが青なのかを決めようとしているようなものなのでしょう、明確な結論はそう安々と得られないと思っています。学問なんてそんなものなのかもしれませんが……

 

異様さの再確認

 ここまでは表向きの理由です。既に頭のネジが抜けた理由じゃないかという批判は存分に受け付けますが、もう一つだけ、最高に狂った理由があります。

 

 

 

 

 思えば恥の多い人生を送ってきました。物心ついた事から私は親への恐怖を抱え続けてきました。親からの愛を感じる事はなく、それどころか親の名声を上げる為の道具として扱われていると感じてきました。恐怖は諦めとなり、そして憎悪となりました。気付けば私は親への復讐心のみで生きていました。名声の道具として扱われているのであればこの世の理を全て犯してでも自らの全てを賭けて親の名誉を徹底的に汚してやる、そう誓いました。いつか力を手に入れる時まで復讐心を悟られないように行きたくもない場所に行き、やりたくもない事を楽しそうにやって、必死に演技を覚えて周りと自らを欺き続けました。時にはしてもいない恋を囁いた事すらありました。心も体もボロボロになり、涙も枯れ果てた復讐鬼と化していました。我ながらよく生き延びられたもんだと思います。

 そんな暗闇で生きてきた私に転機が訪れます。アイマスとの出会いです。復讐心だけで生きていくというのはとてつもなく疲れるものです。そんな生き方に疲れたのでしょうか、流石にこのままだと人間として終わってしまうと本能的に察したのでしょうか、よく分かりませんが私はするするとアイマスに吸い込まれていきました。何かを好きでいる人達を知りました。愛を知りました。自らに好きという感情の欠片が残っていた事を知りました。ようやく人生に光が灯りました。その光が今では私という人間の軸にすらなっています。

 そう、私は「アイマスに救われたと本気で思っている」人間であるという事です。私にとってこのコンテンツは一つの趣味の域を遥かに越えているのです。そして私のような人間は少数派どころか居ないに等しいとも思っています。そんな私の「異様さ」を再確認する為の研究、それがアイマスと宗教学でした。

 「アイマスは宗教ではない」という結論を設定した上でアイマスの「救済観念」を否定し、アイマスに強烈な救済観念を感じている自らを見直す。それがこの研究を行った三つ目の理由にして最大の理由です。

 当たり前の話ですが、私の人生以上に大変な思いをされてきた方も沢山いらっしゃるとは思います。ワケあってプロデューサー、なのですから各々のワケを抱えていらっしゃると思います。ただ私の場合、そのワケがたまたま学問と結びついて幸運な事に世に出すだけの元気を持てるまでに回復していた、そして何故か受けてしまった、それだけの事です。

 これまた余談ですが、如月千早北沢志保、最上静香といった「家族」というキーワードが付き纏うアイドルに強烈な拗らせ観念を持っているのはこういったワケがあります。特に壊滅的な家族仲であるにも関わらず家族と向き合おうと努力する姿が描かれる如月千早という存在を見ると現在親とほとんど決別し、家族そのものを捨てて生きる私との対比を見るようでなかなかに複雑な感情を抱えてしまいます。如月千早が大好きで大嫌い、という訳のわからない感情を抱いているのはその為です。他にも未だに涙が湧いてこなかったり、ふとした瞬間に心が真っ黒に染まったりと私の「ワケ」はなかなか私を解放してくれないようです。

 

 

 

 以上が私の犯行動機でした。よくもまあここまで訳のわからない動機もあったものです。私はあの研究を「怪文書」と形容していますし、実際にそのとおりだとも思っていますが名実ともに私の全てを賭けたものであったという事が伝わっていれば幸いです。そしてその上で「怪文書を書いた変なヤツ」を言っていただければと思います。